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神田雑学大学 平成19年9月14日 講座No375



講師の高橋信本氏1.はじめに

花やしきは来年で155周年を迎えます。私は今のバンダイに変る前に花やしきを経営していた株式会社トーゴという時代に花やしきに入社し、その前の江戸時代明治大正と言うことになりますとなかなか知っている人がおりません。色々な文献を探して、花やしきを研究して下さっている大学の先生とか、また浅草を研究している先生であるとか、そういう方々の色々な書籍を参考にしながら、私どもの従業員教育、花やしきの歴史をまとめたものです。

浅草といえば、日本人のみならず、外国人からの観光客にも人気の街です。2005年につくばエキスプレスが開業し、また2011年から地上波デジタル放送の発信場所となる第二東京タワーの建設予定地が、浅草にほど近い墨田・台東エリアに決定しました。

高さ610mの「すみだタワー」が完成した暁には、浅草を含めたこの地域が人気スポットとして、今以上に賑わう事と思われます。

そんな浅草は浅草寺を中心に発展した街です。浅草寺に伝わる縁起絵巻(えんぎえまき)、これは雷門を潜って仲見世を歩いて宝蔵門の左手に展示されていますが、これによれば、推古天皇36年(628)に漁師の兄弟が隅田川の河口で漁をしていたところ、その網に観音像がかかり、船に乗せて持ち帰り祀った、というのが浅草寺の草創と伝えられています。
平安時代にはすでに、浅草は交通の要所として人々に知られていたと言われていますし、また鎌倉時代に制定された「坂東札所」の十三番札所でもあり、多くの巡礼者が訪れていたと言われています。

ちなみに江戸時代になると「江戸三十三札所」が制定され、浅草寺は一番札所になっています。室町時代になっても、足利氏から寺領を保証され、北条氏の支配下におかれていた戦国時代には、石浜・今津(今戸)・千束・鳥越・浅草などの集落が賑わいをみせ、江戸時代には幕府の祈願所となり、庶民のみならず時の権力者たちからも厚い信仰を集めていたそうです。

こうした歴史をもつ浅草の、住宅地・商業地という日常的な空間の中に、ぽつんと存在する「花やしき」であります。現在は、平成16年9月に、バンダイの子会社バンプレストの支援を受け「株式会社花やしき」の経営で「下町の遊園地」として皆様に楽しんでいただいております。この花やしき、何度となく経営難や震災・戦争などで閉鎖の危機に直面しながら、間一髪のところでいつも誰かに救われてきたと言う不思議なところです。


2.花やしきのはじまり

今日は皆様に簡単な年表をお配りしました。その年表をもとに以下の話を続けていこうと思います。(年表は本文最後に添付)花やしきのはじまりについては、「浅草寺日記」に、嘉永三年(1850年)駒込千駄木・なめし茶屋六三郎が、浅草寺代官所に一通の願書を提出したことが記されています。

六三郎の父は、長年浅草寺境内でなめし茶屋を営むかたわら、この地に植木鉢や原木類を少々植えており、境内へ将軍が訪れた祭に通り抜けることもあったそうです。しかし六三郎の父が病身となり、商売を続けることが難しくなってきたので、なめし茶屋を廃業し、隣接の地所を増し借りし四季の草花を植え、植木茶屋に転業したいと、願い出ました。
このなめし茶屋六三郎こそ、当時すでに植木屋として人気・実力ともに江戸の万民に認められていた、初代森田六三郎でした。

熱心に話を聞く受講生


この願いは、すぐに許可されました。それは、手広く草花を植え込み、四季の美しい眺めを絶やさないようにすれば自然に訪れる客も増えて商売が軌道に乗るはずだという初代の主張が認められたとともに、初代の店が繁盛すれば人出も増え、他の店も繁盛するだろうという、浅草寺側の判断もあったといいます。こうして、嘉永文化のさなかに誕生した六三郎の植木茶屋こそが、のちに浅草花やしきとなるのです。

花屋敷がいつ開園したのか、正確な年月日は不明です。しかし神田雉子町の斉藤月岑(さいとうげっしん)が幕末に著した「武江年表(ぶこうねんぴょう)」には、嘉永五年(1852年)の項に「春のころから、浅草寺奥山北西片隅の林、六〇〇〇坪あまりの所で、大木を伐採し梅の木数株を植え、また四季の草花をも植えて、池を掘って趣向を凝らし、所々に小亭を設けている、夏になって完成し、六月より諸人に遊覧させている、

これは千駄木植木屋六三郎の発起である」という記事がみられます。おそらく、以前より大変気に入られていた輪王寺宮(りんのうじのみや)が三月にお成りの後も造成を続け、嘉永五年五月ごろ完成、六月から一般公開されたのでは、と言われています。

そして、一般公開から10ヶ月ほどした嘉永六年四月、再び輪王寺宮の浅草寺へのお成りがあり、それぞれのお目見えのすんだ後、「六三郎花屋敷」に立ち寄ったと「浅草寺日記」に記されています。このお成りの記事には明確に「花屋敷」という表現が使われています。この呼称については、輪王寺宮の許可を得ていたという事から、この日が浅草花屋敷の誕生ではないかと思われます。

こうして花屋敷は、輪王寺宮の支援もあり、華々しく開園しました。文人墨客はいうまでもなく、大名たちも雨の夜明け、月の夕など、おりにふれ遊覧していたと記されており、また開園当時は、四季を通し百花百草を栽培しすこぶる雅趣に富み、なかでも牡丹と菊細工は高い評判を得ていた。浅草寺の参詣に来た人々の休める場所として、またお見合いの席や茶席としても人気があり、江戸大奥のお女中方が「花屋敷ならお構いなし」として休憩を許され、大奥では許されない「あんみつやおだんご」を楽しむ事もできたと言います。

浅草奥山と言われる周辺は、吉原などの遊び場へ通う道があり、男子を遊ばせるには事かかない様な場所ですが、宮家ゆかりの六三郎が経営する花屋敷は婦女子でも安心できる絶大な信用があったと言います。 二代目森田六三郎のころには、見物客の娯楽のために、植物だけではなく、奇品種の動物も多数飼育され、植物の調査に来ていた園芸学者さえ魅了してしまうほど充実していたと言いわれています。コレクションには、緑色のハト、斑点のあるカラス、立派な大ワシ、金銀の羽を持ったキジ、オシドリ、ウサギ、リスなどであったと言います。このように、緑のハトと梅や桜を眺めながら、園内の茶屋で食事をするのも、実に浅草らしい楽しみだったのではないかと思われます。


3.江戸から東京へ

1868年、江戸幕府は瓦解し、明治政府が誕生すると花屋敷をとりまく状況は、徐々に悪化していくのです。最初の危機は、明治六年(1873年)に東京府からつきつけられた立ち退き要求です。明治四年に浅草寺は、境内など11万5000坪弱が官有地となり、浅草寺境内の一部が公園となることが決定しました。この場所は公園用地にするための取調べをするので一時引き払うように、との通達が出されたのです。

急にどけといわれてもということで、既に二代目の跡を継いでいた三代目六三郎をはじめ、立ち退き対象者らが嘆願書を提出しました。すると、東京府から、今すぐ立ち退きを要求するものではなく、いずれ引き払う覚悟でいるようにとの回答がしめされた。さらに諸店・見世物・寄席・水茶屋などに対し、営業などに関する取り扱いは従来どおりとすることになり、既得権だけは保護されることになりました。

ひとまず危機は回避されたかのように思えましたが、別の決定もなされていたのです。それは、借地での賃貸経営が禁止され、「不用の地所は東京府に返地すること」となったのです。また浅草公園をその場所柄により三種に分け、これまで浅草寺との話し合いで個々に決められていた借地料を、近接する八か町の平均と照らし合わせて、決定することとなったのです。一坪あたり二厘六毛であった借地料が一銭一厘七毛を納めなければならなくなったのです。

六三郎は値上げを不服とする人々と一緒に、東京府に対し借地料の減免を申請するのですが却下され、「先代より、浅草寺と相談して、この土地一般の繁栄を図り、荒れ果てた不毛の地およそ5166坪あまりを永久に借り受けることとし、多分の資本銭を費やした」と強調、交渉の切り札としたようです。そしてひたすら粘り強く「これまで丹精を尽くしてきた地所は、公園が設けられるまで、従来どおりの借地料で拝借したい」と謙虚に嘆願し続けたといいます。

東京府は、「開墾地だと申し立てる者たちは、もともと草原を取り除いて現状のように手入れしただけで、なおかつ原地には柳木などの大木があり、これらを伐採して売却した代金で開墾費用はほとんど償却できたはず」としながらも、借地料の延滞金額も少なくないので、請願をした者に手当金を支給することとなりました。それぞれ一坪あたり三銭の割合で支給することになり、特に三代目六三郎には、永年の花屋敷開墾の苦労が認められて他より増額の一坪あたり7銭、総額にして三百五十円が支給されました。こうやって三代目六三郎は厳しいながらも営業をしつづけることが出決るようになりました。

明治8年、「浅草の花屋敷に大そう立派な牡丹の花が咲いている」と東京日日新聞に紹介され、翌年には読売新聞に、「浅草奥山の六三郎の菊は花壇も鉢植えも大そうよく、菊の花の門も二ヶ所出来、至って評判がよろしく」と絶賛されています。さらに、森田家のお家芸でもあった人形づくりでも、「浅草花屋敷の元祖大眼鏡にては、花木にて種々の生人形を作り、大眼鏡の余興に見物させるとは、抜け目なき思い付き」と評されていて、当時評判を呼んでいたことがうかがえます。
明治の頃の花やしき この写真が明治のころの花やしきに入り口の写真です。定かではないのですが、ここに座っているのが三代目の森田六三郎ではないかと言われています。これは一番古い写真で、東京江戸博物館からお借りして複製させていただいたものです。

しかしその後も借地料の値上げが続き、経営は苦しくなる一方でした。明治18年、深川区木場町の山本松之助という人物が、三代目六三郎が東京府に返地した一部の地所を借り受け、引き続き植物営業を行なう事となりました。実はこの実質的な経営者は、松之助ではなく、保証人として名を連ねている父、山本徳冶郎(隠居後は金蔵)でした。
なぜこうした体制に変わったのかは不明ですが、いづれにしても、花屋敷は三代目と徳治郎(金蔵)の共同経営によって守られていく事になるのです。 そして翌年の暮れには、三代目森田六三郎の手許に僅かに残っていた借地が松之助に渡り、これで花屋敷すべての経営権が、山本徳冶郎(金蔵)・松之助父子の手に移ったのです。


4.新経営者 山本徳冶郎(金蔵)


深川の人、山本徳冶郎(金蔵)は、三代目六三郎の志を受け継ぎながらも、精力的に事業に取組んだようです。借地料の半減願い・花屋敷内に切符売り場の設置願いを提出し、共に許可され、向こう五か年の借地料半減を勝ち取っています。明治20年(1887年)10月には花屋敷内への陳列所建築願いを、12月には植物温室建築願いを提出するなど、花屋敷の整備を進めました。

なかでも最大の整備は、奥山閣の移築です。本所の材木商信濃屋が所有する木造瓦葺五階家(もくぞうくぁらぶきごかいや)一棟を買収し、園内西北の地へ移築したのです。奥山閣の落成にあたり一帯の庭園を広げ、当時の鹿鳴館時代のイメージを合わせたような、イギリス風の上流ガーデンといった感じで、陳列品を改良し、動物には二頭のクマ、ヒツジ、シカ、その他種々の技芸をするイタチ、鳥類などを増やし、当時幼少であった後の大正天皇も、僅かなお供を連れて訪れたと言います。

凌雲閣 この奥山閣は公開されるや大評判となり、関東大震災により倒壊するまで、隣接する高層建造物「凌雲閣」と人気を二分する浅草の新名所となりました。
奥山閣が話題になり、経営は順風満帆のように思われましたが、やはり花屋敷には借地料の負担が重くのしかかり、ついに明治27年(1894年)、奮闘のかいなく、山本親子は花屋敷を手放す事になりました。その後、花屋敷の経営者は三年間に四人と転々と変わっていき、その姿も変貌していくのです。


5.アミューズメントパークへの様相

明治30年(1897年)、すでに浅草で大規模な事業を展開していた大滝勝三郎が経営を引き継ぐ事になりました。その頃の浅草は、活動写真の上映が開始、浅草水族館が開館、日本初の活動写真館「電気館」が開館など、徐々に流行の場所になりつつあったと言います。

大正15年頃の花やしき花屋敷はといえば、四季の草花、盆栽などから動物の飼育をし、生き人形、西洋あやつり人形、山雀(やまがら)奇芸などの見世物をそろえ、ブランコ、すべり台など所々に子供が遊ぶ遊戯機器を設置。また大阪博覧会などから珍しい動物を次々に仕入、内容は勿論、動物の飼育技術も発達させ客を引き戻していったそうです。

そのまま繁栄は、大正になっても続き、世界でも珍しい五つ子のトラが誕生などの話題を提供していました。この辺が大正時代の門構えの写真です。しかし、大正12年、関東大震災で崩壊。花屋敷自体は少ない被害ですみましたが、難を逃れた人々の集合場所となり、動物が脱走したら危険と判断され、多くの動物達は薬殺されてしまいました。これは絵ですが関東大震災の花屋敷にこういうことがあったのですね。

ライオンの赤ちゃんを抱っこ昭和に入り、また動物の飼育を始め細々と営業を再開しました。昭和5年(1930年)、関東大震災で犠牲になった動物のための「鳥獣供養碑」が建てられ、今でも花やしきの築山の横にあります。さらに翌6年には、日本初のライオンの赤ちゃんが生まれています。まさに花屋敷が、江戸時代の奥山の見世物全体を再現したと言えるのではないでしょうか。


6.その後の花屋敷


花屋敷は好評でしたが営業的には苦しい経営がずっと続き、昭和10年(1935年)に動物を仙台市に売却していったん閉鎖をしました。昭和14年〜15年に須田町食堂(のちの「聚落」)によって買収され、名称も「食堂遊園地浅草楽天地」となりました。これがあまり評判がよくなかったらしく、すぐに翌16年には松竹に転売され「劇場楽天地」となり、この時松竹は「合資会社浅草花屋敷」を設立しました。
 
合資会社浅草花屋敷の支配人となった天野鉄男は、園内に軽演劇、古い映画、封切映画、洋画などの各劇場のほか、小馬にひかせるおとぎ列車、豆プール、豆汽車、メリーゴーランド、紙芝居などを設置して、人気を集めたと言います。しかし太平洋戦争が勃発し、空襲に備える建物疎開令により、木造建築物がすべて取り壊されてしまったのです。

終戦直後、花屋敷には都から土地管理を委託された地元の人が住み、それに続いて他の地元の人たちが何人か住み着いていました。当時は空襲で焼け出された人たちが、焼け跡となった他人の土地にバラックを建てて住みつくことが多かったといいます。花屋敷に住みついた人のなかに、浅草で顔ききの実力者がいたのです。

合資会社浅草花屋敷では、自分たちが花屋敷のもとの借主であると主張し、都に対して借地権の回復を求めました。都は昭和21年8月にこれを認め、住み着いていた大部分の人は移転をしました。しかし実力者は、花屋敷の中に建ててあった彼の事務所と製材所、原木置場を相変わらず使っていました。

合資会社浅草花屋敷は、花屋敷を戦前のような遊園地に回復したいと計画し、社長の大谷竹次郎の名前で都に対し、遊園地設置許可を求め「嘆願書」を提出し許可されました。こうして合資会社浅草花屋敷は、借地権も遊園地設置の許可も取得しましたが、問題は実力者をはじめ、まだその場所を使っている人たちがいる事です。
 
遊園地を回復するために支配人の天野鉄男は、当時、遊戯機械製作や荒川遊園や豊島園、多摩川園などの営業委託をしていた東洋娯楽機(のちのトーゴ)の山田貞一に、「その人たちに立ち退いてもらい合資会社浅草花屋敷と東洋娯楽機で、共同営業したい」と声をかけたといいます。
昭和36年の頃の花やしき 山田は考えました。当時の浅草は露天が立ち並び、いわゆる“焼跡闇市”と化していたのです。しかしその一方で、興業街には映画館がすこしずつ復旧し、昭和21年5月の連休には連日2,30万人の人出を見るほどの賑わいがあった。

それでも一歩裏通りにへ入ると、女・子供は一人歩き出来ない、と言われたほど物騒なところでした。その浅草で、しかも土地の実力者が使用しているところを立ち退いてもらい復旧しようというのだから、相当覚悟がいる。しかし山田は、決断をし、昭和22年から浅草花屋敷の仕事を手伝うことになるのです。

山田は、出入りの大工、大竹にまず花屋敷の様子を見に行かせました。が実力者の使っている若い者に、散々おどされて帰って「おそろしくてとてもあんなところでは仕事ができない」という報告を受けたそうです。翌日、山田は一人で出かけ事務所に乗り込み、実力者と談判しました。
(山)「あそこは、私が大谷さんのところから場所を借りて営業する約束をしたところだから、立ち退いてくれ」(実)「なにをいっている。あそこは、わしがよそにとられないように守ってやった所だ。わしが使うのがあたりまえだ」(山)「守ってくれたかどうかしらんが、私は合資会社浅草花屋敷と正式な契約をした。正式な契約者が使うというんだから、どうか邪魔をしないでくれ」

譲らぬ山田に、傍にいた若い者が、「なにをっ、この野郎、殺すぞ」といって日本刀を抜き、山田の目の前の畳にブスリと突き刺した。すると山田は、ひざを崩してアグラをかき、もろ肌ぬいで「斬れるものなら斬ってくれ」まるで芝居のようですが、事実こんなことがあったそうです。覚悟を決めた山田の気概が、実力者の胸を打ち、「あんたが気に入った。浅草復興のためならわしも協力する。一両日中に明け渡してやろう」さすがに若い者を大勢使う人間らしい、きっぷの良さであったということです。もっとも一両日中という訳にはいかなかったらしいが、山田を気に入った彼は、その後も協力的であったといいます。

このようないきさつを経て、合資会社浅草花屋敷と東洋娯楽機の両者は、昭和22年春に花屋敷の営業を再開しました。このとき園内には、鬼退治・だるま落とし・かんしゃく玉・木馬・豆汽車・飛行塔などが設置され、休日には多くの客で賑わったが、平日は閑散としていたと言います。浅草の空気がまだ殺伐としていたせいでもあったのかもしれません。

昭和24年(1949年)からは、東洋娯楽機が遊戯機械メーカーによる遊園地直営第一号となり、これを機に「浅草花屋敷」の名称を「浅草花やしき」に改めました。支配人に高井清、後の名物園長「高井初恵」の夫であります。高井夫婦はこのときから花屋敷の隣に家を建て移り住み、山田と共に花やしきの営業に全力を尽くしていくのです。ちなみに高井初恵は、山田貞一の長女です。


ロケットコースター7.戦後の浅草花やしき


「浅草花やしき」となり本格遊園地として、観覧車・ビックリハウス・回転ボートなど営業種目が増えていきました。昭和26年(1951年)、NHKがテレビの実験放送を開始するといち早く、テレビを園内に設置しました。都内では、野外テレビを置いた場所はまだ数ヶ所にすぎなかったので、花やしき内のテレビは人で溢れていたといいます。

昭和28年(1953年)には国産初の本格ローラーコースターを完成させました。このころは世相も落ち着いて、浅草はもとの代表的な盛り場のひとつになっていました。昭和35年(1960年)には高さ50mの人工衛星塔を設置、ローラーコースターも改造が加わりスリルのあるものに変わっていったのです。娯楽は人々にとって“あるのが当然”というものになり、娯楽がレジャーと呼ばれ、多様化しつつある時代に突入しました。娯楽産業の過当競争が始まったのです。

ローラーコースターそんななかにあって、古い街浅草はどうしても不利でした。娯楽の殿堂といわれ、多くの芸人を世に送り出した六区の娯楽街にも、以前の勢いはなく、閑散とし始めました。浅草あっての花やしきも同じことでした。場外馬券場ができた関係で、入園無料の花やしきは、ギャンブラーたちのたまり場になり、新聞と赤鉛筆を持った労働者ふうの人たちにベンチは占領され、どこからともなく競馬の実況放送が聞こえてきます。子供たちの夢の国はどこかに行ってしまったのです。もっと困った事に、連中は閉園時間を過ぎても出て行こうとせず、一升瓶を持ち込み、酔っ払って寝てしまうのです。

その時、酔っ払いやチンピラふうの人々に対し、先頭になって「追い出し作戦」を実行したのが、東洋娯楽機取締役の高井初恵園長でした。彼女が取締役をやっていた当時の東洋娯楽機(のちのトーゴ)は、大型の遊戯機械をはじめ一世を風靡した「もぐらたたき」などの小型の遊戯機械をも製作するメーカーであり、また全国の遊園地に営業所として約40ヶ所を数える会社になっていました。その後、トーゴと社名を変更し、よみうりランドのバンデット・後楽園のウルトラツイスター・富士急ハイランドのFujiyama・ラスベガスNYNYホテルのマンハッタンエキスプレスなど国内外を含め多くの大型遊戯機械を製作していました。

一方「花やしき」は、というと・・・、昭和50年代半ばの浅草は「汚い・暗い・こわい」と言われるほどになり、若い人などほとんど見かけなく、いるとすれば、家出少女と不良たちであったそうです。いかがわしいお店も出現し、風紀は乱れきっていたと言います。
 
東門 そんな中にあって、花やしきは遊園地という存在自体が特殊であったためか、大打撃を受けずにすんだのです。この頃のことを高井園長は、「花やしきは打撃を受けなかったけれど浅草あっての花やしき、浅草を何とかしなくちゃ!と通りかかった人に、“ちょっとお茶でも飲んでいらっしゃいよ”と気軽に声をかけ、いつのまにか大人数になって、大宴会が始まる・・・浅草は、そんな気質を持つ街。

お祭ごとが大好き、人間が好き。接待する側もされる側も一緒になって本気で遊んでしまう。あの浅草をもう一度取り戻すのよ」と言うことで、園長一人ではなく、浅草に古くから住む人たちも同じ思いがあり、思い立ったら直ぐ実行という下町気質で「浅草おかみさん会」が発足し、いろいろなイベントを精力的に実施して、少しずつ若者の姿が観光客に混じって見えてきた。また、レトロブームの始まりでもあり、下町情緒を味わうのも、粋でおしゃれな遊び・・・そんな感覚が芽生えてきたといいます。
 
昭和60年、台東区が打ち出した“下町ライブ計画”によって大々的な活性化運動が推進されました。区の顔である浅草では、さまざまなイベントやキャンペーンが繰り広げられました。この運動に着目した大手企業が浅草再開発に乗り出したのです。国際通りには、浅草ビューホテルが進出し、六区の娯楽街には、ROXビル(TOC)が建設を開始しました。

この年、風営法が改正され、娯楽産業の行き過ぎへの取締りが厳しくなり、花やしきもたびたび、浅草警察からの勧告を受けるようになりました。入園無料のゲームセンターには18歳未満の子供たちがたむろするようになり、警察側は、無料であるがゆえに取締りができず、そのための有料勧告でした。さらに浅草の活性化が着々と軌道に乗りつつあるなかでも、寝ぐらを求めて現れる自由労働者は、相変わらずの状態だったのです。

安くて、誰でも気軽に遊べる遊園地をめざし、四十年近く入園無料であった花やしき、入園料をとれば、お客さんの足が遠のくのではないか、門のところまで来ても「お金をはらうのならやめた」と帰ってしまうのではないかと迷い、不安を隠しきれない従業員たち、しかし高井園長は、決断し入園有料制度を実施しました。内心冷や汗ものでしたがしかし、いざフタをあけてみると、お客さんの入りに、目立った減少はみられず、さらにうれしい事に自由労働者やギャンブラーたちの足が花やしきから遠のきました。

そして高井園長は、「園内を改装しようと思うんです。もっともっと楽しい遊園地にしないとね。いただいた入園料は、還元しなくちゃいけない」と言い、さっそく新しい乗物を導入し、約5億円の投資をし華々しくリニューアルオープンしました。こうして現在の花やしきの基本的な形が出来上がってきたのです。

元祖ゆうえんちと書いた花やしきポスターに、花やしきマップ図

そして時代は平成に移り、花やしきも経営母体のトーゴも好成績を続け再び園内リニューアル計画が持ち上がります。本社サイドからは、ヤング志向を高めたいとの企画がどんどん出てくるのですが、他の遊園地との差別化が出来ないのでは、何かが足らない、何かが違う、と軽い苛立ちを覚える高井園長でした。そこで、これからは”攻め“より”守り“でいこうと、思ったそうです。消極的な現状維持という意味ではなく、古くからの浅草の伝統や文化を守る、その姿勢を第一に考え原点にしようという趣旨の考えでした。

花やしきはもともと“花園”だった。そして慎重にかつ大胆に新たな乗物の設置、改装に加え4万本の花を植え“花いっぱい、夢いっぱい、友達みたいな遊園地”として再びリニューアルオープンしました。最先端のハイテクマシーンがあるかと思えば、「鬼退治」「射的」など、昔懐かしい遊具もある。三世代で共有できる遊園地になったのです。

花やしきの入園者数、売上は順調でしたが、経営母体である株式会社トーゴのメーカーとしての売上が思わしくなく、またアメリカの子会社の経営にも行きづまりがあり、平成16年1月、会社更生法の適用を申請、その年9月に花やしきの経営権をバンプレストが継承し、株式会社花やしきが設立され現在にいたっております。バンプレストは、バンダイの子会社であり、非常にキャラクターに強い会社ではありますが、花やしきがキャラクターランドに移行する事はありません。花やしき自体が、ひとつのキャラクターであると考えているからです。

また、浅草は芸能発祥に地とも言われています。そこで花やしきでは、総合芸能スクールとして「花やしきアクターズスタジオ」を設立し、生徒たちは日頃の成果を園内ステージはもとより、地域の催し物などに積極的に参加し日々頑張っております。現在、生徒の中から「花やしき少女歌劇団」というユニットを結成しNHKラジオ「ここはふるさと旅するラジオ」の主題歌に選ばれるまでになりました。来年には、花やしき通り商店街が東京都の進める景観整備事業の一環として、江戸町ふうの街並み、エンターテーメント通りになり浅草寺へ参詣する人々をもっともっと誘客していくため、地域と一体となり頑張っております。


講師の高橋信本氏 8.まとめ

以上のように、花やしきは何度も閉鎖の危機に瀕しながら、今日まで生き残ることができました。東京ディズニーランド・東京ディズニーシー・ユニバーサル スタジオ ジャパンなど新たなテーマパークが誕生する一方、横浜ドリームランド・向ヶ丘遊園・宝塚ファミリーランドなど多くの遊園地が姿を消していきました。

ではなぜ、花やしきは生き残る事が出来たのでしょう。それは、開園以来花やしきを支え、育んできた江戸っ子たちのおかげではないか思います。将軍をはじめとする武家層から町人にいたるまで、野暮で地味な江戸っ子にも、派手で金ばなれのよい江戸っ子にも、花やしきが分けへだてなく受け入れられたんだと思います。
 
江戸っ子である三代にわたる森田六三郎たちが娯楽の殿堂の基礎をつくり、江戸っ子の山本徳冶郎(金蔵)が、文明開化と近代化の流れに適応させ、その後の時代の変化にも、花やしきらしさを保ち続ける基礎を築いた、江戸っ子によって作られ、江戸っ子によって愛された。そんなことがひとつの要因ではないかと思っています。

また、それに加え浅草の「地域力」も大きく影響しているものと思われます。嘉永当時は、輪王寺宮の力を借りて、浅草の勢いを盛り返そうと開園した。いわゆる、民間活力導入による町おこしです。維新後の東京府にとっても、都市計画に不可欠な存在となり、庇護されていく。東京府の後ろ盾がなくなっても、大正期の遊園地ブームの波にうまく乗り、救われてきた。

戦後は「娯楽屋・山田貞一」に出会い、一家が浅草人となり、地元の実力者をも説得し再建してきた。その経営母体であったトーゴが経営破綻後、いち早く経営継承を名乗り出たのは、やはり浅草に本社をおくバンダイの子会社バンプレストです。このように花やしきは、何度も閉鎖の危機に直面しながら、たくさんの人々に支えられ浅草だから、花やしきだから存在しているのだと思っております。今後も、浅草らしさ・花やしきらしさを忘れず、たくさんの人々に愛される施設をめざし頑張っていきたいと思います。(拍手)



文責(高橋信本)
会場写真撮影(橋本 曜)
HTML制作(和田節子)


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